人は煩悩とともに行きていく

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仏教は本来ストイックな思想

釈迦の仏教は、修行(自己鍛錬)によって煩悩(欲)から脱し、悟りを開くとする教えを説いています。

しかし、民衆は出家も修行もできない人が多く、仏教信仰を諦めてしまいます。
そこで民衆を助けてくれる教えを創出し(一般救済)、大乗仏教が広がっていきます。

大乗仏教では、出家者だけではなく在家者を含めたすべての人びとを救済することを目的にしています。

つまり、信じれば救われるというゆるい考えです。

上座部の仏教は自分の悟りのために修行を行うことが主流でしたが(自利(じり))、大乗仏教では自利利他(じりりた)の立場を取ります。

自利利他(じりりた)とは、他の人の救済のために尽くすこととともに、自らの悟りのために修行し努力するという考え方です。

ちなみに、自分の利益だけを考えることを「我利我利(がりがり)」と言います。

そして、自分の利益だけを考える者を「我利我利(がりがり)亡者(もうじゃ)」と言います。

人は煩悩とともに生きていく

大乗仏教では民衆を助けてくれる仏像が作られました。

しかし民衆を救済してくれるといっても、人間が持つ苦しみを生み出す煩悩は消えません。

この世のしがらみの中で生きるということは、煩悩との戦いであり、自己との葛藤(苦しみ)の連続です。

何かにすがっても、金品を出しても、人間が持つ苦しみを生み出す煩悩は消えません。

自利利他の仮面を被った「我利我利亡者」がどれだけ存在するか。

煩悩が簡単に消えます、と説くことのほうが欺瞞である。

仏教の教えは本来、自己鍛錬トレーニングのようなものです。

普通の人には少し厳しい。

必要以上の煩悩(欲)にできるだけ振り回されずに生きていく、という自分を時々見つめ直すくらいが精一杯かもしれません。

救われるとは何か

日本の大乗仏教では仏像崇拝が取り入れられ、自己鍛錬をしなくても進行すれば救われるという教えが広まりました。

宗教化していきます。

仏像は生身の人間と違って煩悩を持たない無機物(生命を持たない存在)ですから、仏像信仰しても仏像の思惑に振り回される危険性はない。

信仰を利用する生身の人間の方が危険である。

しかし死後に救済されても、生きている間はどうするのでしょうか。

信仰というものは人が持つ概念の一つに過ぎない。

自分を救うのは自分に向き合うしかない、という教えは、

自己の中に浮かび上がってくる煩悩は他者依存では消えない、ということなのでしょう。

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